1年間親方の元で仕事をして思ったことがある。
親方の言うやり方が全く僕には合わない
ということだ。
師匠に対してなんつー物の言い草だ!って言われるかもしれない。僕もそう思っていた。
僕は守破離という言葉が好きだ。素敵だと思う。だから師匠の言うこともまずは守った。言われたことをそのままやって、まず言われたことを出来るようにしようと。
でも僕はどうもそういうタイプではないらしい。
というか、僕と師匠は人間のタイプや特性が真逆すぎて師匠が上手く行った方法では僕は全く上手く行かないということに気付いたのだ。
手先が器用で運動が得意で右利きの人間が、手先が不器用で運動音痴の左利きに有効なやり方を教えることなど出来るのだろうか?いや、無理でしょw
今の師匠は実は僕が選んだわけじゃない。別のところが駄目だったときに「こういう場所もあるけど?」と紹介してもらったところに僕はそのまま入ってしまった。
これが良くなかった。師匠は僕がちゃんと選ぶべきだった。これは本当に僕のミスで誤った選択だったと今は思う。
師匠はとにかく言ったとおりにやらないと怒る人だった。僕が多少でも自分のやりやすいように変えると「それじゃ駄目だ!だからお前は駄目なんだ!」と怒った。
だが僕は師匠の言った通りのやり方ではどうにも上手く出来ない。だからこそ多少なりとも僕のやり方を入れたかったのだがそれを許されず、言われたとおりにやっても成果は出ず、成果が出なければ当然怒られ否定され、僕はどんどん出来なくなっていった。
僕は昔からなぞるのが下手で苦手だった。ひらがなとか漢字とか小さい頃なぞり書きしたでしょ?あれ、ゆっくり書くのが嫌で、線に上手く添えて無くても早く書きたくて早く書いてた。
だからまぁ字はあまり綺麗じゃないのだけれどw
でも仕事でそれは駄目じゃん?だから僕としては、他人のやり方はあくまで参考。自分のやり方をベースに足りない部分をまず分析し把握、そして他人のやり方や成果物から足りない部分を補うための何かを発掘して自分のやり方にプラスする。
これが僕のやりたいやり方だ。
そもそも思い起こせば僕の人生で他人に言われたやり方が上手く行った試しなんて無いのだ。
僕は社会の中では少数派だと思う。だって社会に適合できないレベルだし。
なら、多数派のやり方なんて合うわけないんだ。他の大体の人が上手くいく方法は僕では上手く行かないんだ。
そうするとこの世にサンプルなど限りなく無いに等しい。自分にあったやり方を探す、発掘する、作り出す。これが僕の正しい生き方なのではないだろうか。
そしてたとえ誰かに師事するとしても、自分に似た人に師事すると良いのだろうと、この1年で知った。
正反対の人のほうが刺激を与えあって良い、とか言うけどそれはあくまでお互いが同等な場合だけだろう。そこに上下が発生した途端に物事は一気に噛み合わなくなる。
自分のやり方を探す作る。自分に似た人を探しその人に師事する。
幸い一人で探求するのは得意だし、自分に似た人を探すのは大変だが今はネットで多くの人が己の何かを発信している。昔より遥かに探しやすい。
そう捉えればこれからの人生の生き方はガラッと変わってくる。
やるべきことも変わってくる。観るものも変わってくる。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら目と耳を塞ぎ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」
自分を変えろ、というのは「出来ないことを出来るようになれ」ではなく「自分に合った適切なやり方を見つけてそれに変えろ」ということなのではないのだろうか。
今コロナで世の中が大変だけど、著名人が「自分にできることをやろう」って言ってるのもこういうことが共通して根底にあるんじゃないかなとも思う。
適材適所。適切。適当。適度。適宜。適時。
僕はこれらの言葉が結構好きだ。
自分に合った、その場に合った、その時に合った行動や思考を、ちょうどいいタイミングで行う。
これこそがPDCAな気もするが、世間では違った捉えられ方をしているなと思う。
今回のコロナで、我々人間は強く試されているなと感じる。
力の強いやつは前線で大いに戦えばいい。
頭のいいヤツは後方で参謀をやればいい。
それほどの力も頭もないやつは彼らを手伝えばいい。
それぞれの性能に応じた適切な場所があるはずだ。
そして無理にそれを逸脱する必要もないのだ。
自分に合った生き方、やり方、場所。
そういったものを性能が低い人間こそ見つけよう。
そしてそこで出来る範囲のことを出来るだけやればいいだ。