葬式やらお参りやら線香やら。アレは残された側のための行為なんだな。
その事実自体は知っていたけど、この歳になってやっと実感したというか、体で理解した。
同級生の死はまぁ突然で驚きはしたが、人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。それ自体にどうということはない。なんか言い方悪いけど。
でもこのコロナ禍で通夜や葬儀は近親者のみ。
中学の部活は一緒だったが高校は別。10年前くらいになにかの集まりのときに居て会ったくらいで特別に親しかったかと言うとそういうわけではない。
でもそれなりに仲は良かったし遊んだこともあったし少なくとも俺は友達だと思っていたんだけど、その友達を弔ってあげると言うか、サヨナラを言えないというか、そういうなにかしたいんだけど何も出来ないこの状況が、非常になんだかモヤモヤする。
俺は”友達”というものの認識がどうも他人とは違うらしい。
小学生の頃、席が隣で同じ班でそれなりに喋る女の子が居たのだが、俺はその子を友達だと思ってた。というか、同じクラスのみんなを友達だと思ってた。
でも何かでその子から「え?私達友達なの?」と言われてハッとした。
そうだ、俺達って友達なんだろうか、と。
そして最近同級生が死んで改めて気付かされたことがある。
俺は友達だと思ってたけど、相手はそうは思っていなかったかもしれないということ。
これは死んだ彼だけでなく、当時同じ部活だった人達、同じ中学だった人達にも言えることで、俺のことを友達だと思っている人はもしかしたらほぼ居なかったのではないか、とこの件で気づいたのだ。
気がつけば昔からそうだ。俺だけ誘われない。いつのまにか俺だけ輪の外側に居る。
かれこれ三十云年生きてきたが、本当に友達だったのは俺が親友だと思ってた一人と、家が近所で昔から知ってる一人の合わせて二人しかいないかもしれない。
俺の思う親友くらいでようやく友達なのかもしれない。世間の基準でいうと。
そう思うと「いやいや、友達いないとは言ってはいるけどマジでいないわけじゃないからwww」と思っていたのだがどうやらマジでいないらしい。
昔からそうだ。何が原因でそうなるのかさっぱりわからないが、人が寄ってこない。
避けられているかと言うとそういうわけではないのだが、気がつくと周りには人がいなくなっている。
無味無臭といったところなのだろうか。あまりに存在感がないのだろうか。
俺はずっと、自分は無意識に他人に嫌われる行動をしているのではないか?と推測してそれ以来ずっとなるべく人とは自分から積極的に関わらないようにして生きてきた。
だがどうにも「嫌われている」にすら達していない可能性に最近気づいてきた。
好きの反対はきらいではなく無関心。
俺はびっくりするほど誰からも関心を寄せられない人間だったのだ。
なぜ生きているんだろうか。
多分俺が死んでもきっと誰にも知られないんだろうなと思う。
家族だって、俺が死んだら困るだろうな。電話帳少なっ!って。
そうやって誰にも気づかれずにこの世から消えていく。
それ以前にどうせみんな俺のことなんか覚えてない。
それって死んでるのと一緒じゃね?