Goin'にMy Way.

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グラディウス400 初乗り感想

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グラディウス400

www1.suzuki.co.jp

 CB250Fからグラディウス400へ乗り換え、天気の関係で30分ほどしか走れなかったんですが、感じたことを残しておこうと思います。ファーストインプレッションってやつ?

 

 まずは重量。CB250Fは158kg、グラディウス400は206kgで、ほぼ50kgも重くなってますがそれをあまり感じません。乗り換えるバイクを探している際にこのグラディウスの200kg超えという重量が、自分に扱える重量なのだろうかと非常に心配していたのですが全くの杞憂でした。

取り回しに関しては全体重量が50kgも増えているので当然押し引きするのに必要な力は増えてますが、教習所でスーフォアを取り回ししていたはずなので押し引きに関してはあのイメージで良いと思います。

ただ、スーフォアと違うのは跨って車体を左右に傾けたときの重量感。これが全然違います。CB250Fから50kgも増えたとはとても思えない感覚です。確かにCB250Fに比べれば重くはなってますが、「ホントにこのバイク50kgも重くなったの?!この重さで??」って感じるくらい。軽い…っていうのはちょっと違うのですが、スーフォアのように下手に傾けたら支えきれない重量というか不安感というか、そう言うのが全く無いです。多分、並列4気筒で重たいシリンダーが4本高い位置にあるスーフォアと、Vツインでシリンダーの片方がほぼ前に倒れ込んでいるグラディウスとの違いなのかなと思います。

 そして足つき。これは普通です。785mmですがVツインなので細身で、足つきは普通のバイクと言った感じです。高くもなく低くもなく。自分は172cmですが股下が76cmしか無い短足なのでかかとが浮きますが、スーフォアもCB250Fもグラディウスも、足の付き方はほぼ一緒でした。

 この重量と足つきに関することが一番不安だったのですが、跨ってみてちゃんと足もつくし、何より思っていたよりも全然重くない。あとは低速のコントロールがうまく出来るかが若干不安でしたが、それも杞憂でした。

 

 自分は停止が教習所時代から下手くそで、それだけで立ちごけしたり、バランスを上手く維持できなくて左足ですごく踏ん張ったり、右足出したりしてました。それは免許取得後でもあまり変わらず、CB250Fを1年乗っていてもコケたりすることは当然無いですが、スマートに停車して軽く左足で支えるというのがなんか上手くできてなかったんですが、グラディウス400に乗ったらびっくりするくらい上手く停まれました。

 それどころか低速での安定感はむしろCB250Fなんかより全然あって、CB250Fは下手をするとすぐにパタンと倒れていきそうな感覚だったのですが、グラディウス400はどっしりとしていて、低速でありながらもちょっとのことでは倒れないような安心感があります。ここで言う低速というのは教習所でいう所謂一本橋やクランクのように、リヤブレーキを引きずりながら半クラで低速を維持しつつ曲がったり真っすぐ走ったりするアレです。これは本当に驚きです。むしろ重いバイクのほうが乗りやすいという新発見です。

 

 パワーに関してですが、250ccから400ccです。当たり前ですが全然違います。軽自動車から普通車くらい違います。あぁ250ccって本当に軽だったんだな、とすぐに実感しましたw 

どのギアでどれくらいの速度でどれくらいの回転数で走るのか、というのはこれから探っていくところですが、70km/hや80km/hからでもまだまだ全然余裕の加速をしていくのでスピードの出しすぎには注意しないといけなさそうです。

CB250Fでは6速で80km/h出すと、もうエンジンの8割くらい力を出している感があって振動もビリビリし始めて、確かに80km/h出すのはこれと行って苦ではなかったのですが、優雅に流す、というようなエンジンの回り方ではなかったです。

ですがグラディウス400はVツインだから、ということもあるかもしれませんが振動も少なく、80km/hはまだまだ余裕があり優雅に走れます。

 

 振動の話が出てきたのでそれも一つ。CB250Fは単気筒の中では振動が少なく、ショートストロークなので単気筒の割には回るエンジンだと言われていますが、確かにドコドコという振動はごく低速回転以外では全く感じないエンジンでした。ただ、ビリビリとくる微細な振動はなかなかあるバイクだったなと思います。

CB250Fは4000回転から5000回転あたりの間だけ振動がほぼなく快適に走れます。が、それを下回るとドコドコし始めるし、上回るとビリビリしだします。街乗りでは本当にちょうどいいところだけ使えて良いのですが、80km/h以上で流れいているようなバイパスや高速では常にそのビリビリが発生している状態になります。

初めて乗ったときは「こんなにビリビリするもんなの!?」って思ってバイク屋さんに聞いたりネットで調べたりしていたのですが、バイク屋さんはまぁこんなもんだよと言い、ネットでは振動が少ない!とどこを見ても書かれていたので、バイクってこういうもんなのかなと思っていたのですが、グラディウスに乗り換えて「あぁやっぱり振動多かったんやなw」と気づきましたw

グラディウス400はまだ乗り込んでいないのでわからないのですが、高いギアで低回転だとステップまわりがやたらとブルブルするのが気になりました。グラディウスは排気量が多くなったとは言え、それでも4000回転5000回転あたりが常用域かな?と感じたのですがどうでしょうか。

 

 あとびっくりしたのは曲がりやすさです。これはCB250Fよりもパタパタ倒れます。え?なぜ?

その上、CB250Fよりも安心して深く倒せます。自分は下手なのであまりバイクを倒せないのですが、CB250Fで「あぁ怖いなぁ倒すのはこれくらいかなぁ」と感じるところよりもグラディウスは更に深く倒せます。そしてそのさらに深く倒した角度での安心感が段違いです。タイヤの太さや車重の関係かもしれませんが、より倒せることは間違いないです。このあたりも自制して走らないと事故りそうなので注意しないといけなさそうです。

 

 

 といったようなところがファーストインプレッションですかね。大して乗っていないので早く乗りたいのですが天気がずっと悪いのでしばらくお預けですね…。

 

 世間には大型おじさんがいっぱいいるそうですが400ccに乗ってみてそれは間違いないなと思いました。これに乗ったら小排気量には確かに戻れないです。

自分は軽自動車って色々な部分で疲れるからあまり乗りたくないと思うタイプです。少なくとも5ナンバー以上の車が良いです。ただ家の車庫や周辺の道路状況、積雪時の道幅減少等を考えると4000以上の全長や1700を超える全幅はどうしても使い勝手が悪いです。だけどやっぱりそれなりに速い車が良い。ということでスイスポを選び、そしてそれが現状でのベストチョイスだと1年乗って改めて実感しています。

バイクに関しても同じです。250ccは、軽自動車に乗ってイヤだったことを同様にトレースしていたことに気づきました。パワー不足や車格車重が小さいことによるドライバーへの疲労蓄積など。もう250ccには戻れない。そんな気がします。とは言ってもリッターバイクは自分にとっては明らかに無用の長物であるとは思うので、大型に乗るとすれば650ccや750ccあたりになるだろうと思います。まぁそれはこれからグラディウスに乗りまくって、それでも大型に乗りたいと思うか否かという部分なので今どうこうという話ではないですけどね。

 

 巷では400が一番中途半端だと言われていますが、乗ってみて思ったのは一番中途半端なのは250ccではないか、と感じています。自分が一番最初に乗ろうかなと思ったバイクはジクサーだったんですが、今思うとそれはまさに正解だったのかもしれません。自動車専用道路や高速を走らない環境なら125ccでも良いかもしれないですけどね。

軽さを取るには250ccはやや重すぎると思います。ジクサーや原付二種のように100kg台前半のバイクの方が手軽に乗れるし扱いやすい。

パワーに関しても250ccでは物足りない。実生活で軽自動車で何ら不満はないと感じる人はいいかもしれませんが、自分のように不満を感じる人に250ccは不足です。

まぁそうは言っても大型界隈の方からは「400ccww」と思われているんだろうなぁと思うのであまり大きいことも言えませんがw

 

 ちょっとしか乗れてませんが、スイスポのようなジャスト感がするので今の自分にちょうどいいバイクだと思っています。

最初から400ccを選んでおけばよかった、とも思いますが車と違って排気量やエンジンタイプやスタイルで乗り心地がこうも違う乗り物なので、色んなバイクに乗るというのがバイクの楽しみ方なんだなというのも乗り換えることで気づけました。

 

 というわけで今回はこの辺にしたいと思います。また1000kmとか3000kmとか、たくさん乗って考えが変化してきたらなにか書こうと思います。

 

マイスト 1/12 完成品バイク スズキ GSX-R750

マイスト 1/12 完成品バイク スズキ GSX-R750

 

 

出来ないやつをさらに蹴落とし、出来るやつの足を引っ張る。

b.hatena.ne.jp さすがに「俺は優しいのにー」とかは言わんけど、いわゆるこの優しい男って毒にはならないけどクスリにもならないタイプだよね。

それってさ。さほど実害無くね?

優しいを自称してる辺り痛い奴らではあるけど、重いっていうのも結構関係が進展してからの話じゃね?

いわゆる好きでも嫌いでもない、普通や興味ないというカテゴリに入れられてる人間なわけなんだけど、それにしたってちょっとコメント辛辣だなぁと。

え?そこまで言う?っていう感じで。

私はこれを死体蹴りと名付けることにした(冗談だぞ笑うとこだぞ)。そして死体はリザレクション掛けないといつまでたっても息を吹き返さないので、誰かがリザレクション掛けてあげようよ、というのが今回のお話。

 

 何ていうか貧困化がじわじわ広がってきたせいなのか、他者を攻撃したり下に見たりすることで自分を保とうとする人がすごく増えてきている。

犯罪者とかそういうのは叩かれてもしょうがないかなぁ、とか思うんだけど、こういう味も素っ気もないやつも攻撃しちゃうのはどうなのかなぁって。当の本人たちは攻撃している意識というか自覚はなさそうだが。

身だしなみを気にするようになった結果モテ始めた男とかも、何かにつけて何もしてない男を攻撃…というかつついてくる。なんでやらないんだよか、お前らの努力が足りないとか。

大体、成功するファクターは努力だけじゃないのにね。様々な要素が採点され、一定ラインを超えれば受け入れられる、1点でも足りなければ受け入れられない、と言う状況の中で、合格ライン80点に対し79点のやつが今までやっていなかったことを始めるという”努力”をするのと、49点のやつが今までやっていなかったことを始めるという”努力”をするのと、やってることは一緒でも片や余裕で合格ライン超え、片や全く届かない、っていう状態になるという事に気づかない人が多すぎる。

ってそんな話じゃない。

今の世の中、強きものが弱きを助ける世の中では全然ないということ。まぁ強き者ってのも昨今ピンきりですけども。

 

 勝負というのは天秤だと思う。100gと50gだと当たり前だけど100gのほうが重い。つまり勝つ。でも100gと99gでも100gが勝つんだよなぁ。しかも絶対。何回やろうとも結果は変わらない。

才能がないって諦めちゃうのも、そのたった1g足りないだけで手も足も出ないから。そしてその1gは才能だと思っちゃう。だから諦めるんだよね。まぁ、実際そうであるケースもたくさんあるんだけど。

でも、その1g差で勝っちゃった人ってただ単に、自分は勝った自分のほうが強い、としか思わないんだよね。1gしか差が無い事に気づかないし見ようともしない。

勝ったことに舞い上がっちゃって、自分は強いと勘違いして、自分以下の人間を見下し始める。で、俺強いじゃん俺って強いんだ、なんて勘違いしちゃう。

そしてそれは所詮勘違いだし、たった1g勝利なので他のことや他の人では簡単に負けてしまうから自分は強いという自信を長時間保てない。だから手頃な弱いやつを見つけて攻撃して勝った気になる。

本当に現代人の病気だと思う。

さらにはうまくいっている人の足を引っ張る。そんなことできっこない、なんて聞いたことない人居ないくらいみんな言うし、芸能人の幸せツイートには嫉妬shitツイートがバンバン飛んでくる。

他人の成果を自分のものに、成功してる人間を罠にかけて陥れる。そう言う行為も、他者を引きずり下ろす、足を引っ張ることによって、自分と他者の距離がこれ以上開かないようにして精神安定を得ている。

他者がどんどん成長しようが、己も成長すれば相対的には他者との距離は変わらない。いわゆるライバルや切磋琢磨というやつだ。だが、己を磨くのをサボった瞬間、その距離はまたたくまに開いていく。自分は苦しい思いをしたくはないが、他人より負けているのは我慢ならない、という怠惰な人間が出来ないやつをさらに蹴落とし、出来るやつの足を引っ張る。

 

 その原因は昨今の貧困がーとか言ったけど、でもそれももしかしたら1gなのかなぁとも。そもそもみんなと一緒に足並み揃えて、が大好きな日本人。そう言う気質も含有してそう。あとはなんだろう?まぁ、その辺はいつかどこかで考えよう。

 

 今回の話は、強いものは弱気を助けようよ、と言う話。強く、何かが出来る。であればそれを使って弱い人を助けたり、弱い人を引っ張り上げたりしようよ、っていう話。これもまた、誰かの助けになる、奉仕するっていうことにもつながることかなと。

誰かに教えたりすることで、自分の中での理解が深まったりすることもある。いやいやテメーの成長の世話なんざしてられるかよ、って思うところもあるだろうけど、一番下を切り捨てられない(殺したりしてこの世から抹消できない)社会である以上、誰かが下を引っ張り上げないといけないんだよな。

会社の中ならクビにしてしまえば会社という枠組みの中ではそれで解決だけど、社会という枠組みの中からはじき出すことは不可能なんだから、助けて上げる必要はあると思う。そうすることで自分の求めるスペックに足らない労働者が、使えるレベルになることもあるだろうし、モテナイ君をモテ男に仕立て上げれば下手すれば一生恩義を感じてくれるかもしれない。最終的には自分の利益へとつながるので、本当にそれをやってる人達は最終的に「いやいや自分のためだし」とか言っちゃうからわかりにくいけど、誰かを助けてあげよっていう考え方も大事なので、もうちょっと…いやもっとこの世の中の人間が誰かを助けてあげようっていう考えを持つべきだなと、上記ブコメを見てて思った。

 

 そして思うリアル世界との乖離。

いやマジでネットはなるべく使わんほうがええわ…

 

ストレス解消 パンチボール

ストレス解消 パンチボール

 

 

岩のように静かで動じず、叩かれても己の形を保つ強さを

 ブコメに星がつくと、〇〇さんが星をつけました、と通知が出るんだけど、そこそこやっていると「あれ?この人前にも星つけてくれてたような」みたいな人がちらほら居る。

星がつくのは嬉しい。特定の誰かが自分のいろいろなコメントに星つけてくれるのも。

そういうの、承認欲求がーってよく言われるけど、確かにそれもあるんだけどふと気づいたのは、小さい頃学校でクラスの友達とテレビの話で盛り上がってた感覚が近いなぁと思った。

最近、誰でもテレビ見てるかと言うとそんなことはない。自分だって朝出かける前になんとなく付けてるだけで、それ以外の時間にテレビを付けることはない。あ、あとはローカル情報番組くらいか。

ドラマなんて最後に見たのは中学生くらいだろうか?ってレベル。趣味趣向が多様化してきている今、テレビ見てる人だって同じテレビ見てるとは限らない。

そもそも自分は天の邪鬼なので、オリンピックやサッカーみたいなその場だけ熱狂するスポーツ観戦はやらないし、ベストヒットソングとか絶対聴かない。まぁこれは音楽性の違いってのが大きいけど。

そんな時代の中、同じ話題に関してあーだこーだ言う場所や機会って結構貴重なんじゃないのかって思ったりする。

リアル友がたくさんいる人ならその沢山の人の中から趣味が合う人が居るんだろうけど、自分は友達居ないし、リアルで人とずっと一緒にいるのはしんどい。

 

正直、昨今のネット上で往来している言葉自体が最近好きになれず、以前よりもネットから距離を置くようになったし、スルーする言葉達も多くなってきた。自分の中で意識して人の意見から距離をおいたり耳に入ってしまったものでも忘れたり無視したりする努力をせざるを得ない事が本当に増えたけど、こういうブコメみたいなのがあると、やっぱり人間って面白いんだなと思う。

 

ただ、それを楽しむためにはそれなりに自分自身をしっかりと保たないといけないし、感情で反射的に動いてはいけないし、なんでも言っていいってことにもならない。

岩のように静かで動じず、叩かれても己の形を保つ強さを、ネットを使う人達は皆持つべきだと最近思う。

検索のメインが文字情報からイメージ情報へと変わっていった理由を考えてみた。

 いつだったか。ワクチンの情報をインスタで検索した若いお母さんが居たなぁ。普通に考えれば、アホなん???って言うところだけど、最近自分の検索の仕方がテキストから画像や動画へ移行していることに気づいて、何故だろう?と考えてみた。

 

前述している若年層が検索にインスタを使う原因に関しては、単純にネットと言うものの使い方がわかっていないんだろうと思う。

自分も昔はgoogleのあの検索窓しか置いていないWEBページをどうやって使えばいいかわからなかったし、そう言う部分もあろう。

最近じゃアフィブログの乱立のせいで、昔なら「ググれ」と言っていたところだが、情報の信憑性や情報の密度などの理由からむしろ「わかる誰かに聞け」と言ったほうが良いような時代になってきている。

 

自分が最近テキスト主体の検索を利用しない理由には、まず1つにアフィブログの存在がある。奴らのwebページは誰が作ったものであろうと構造も構成も内容もほぼ同じで、その大量に湧いて出るアフィブログがなければちょいとググるだけで出てくるような情報しか書かれていない。

程よくまとめられて入るが、肝心の欲しい情報がなかったり痒いところに手が届かなかったりすることがほとんど出し、いらない情報もかなりの量混じっているため、必要な情報を探し出してピックアップしなければいけない面倒くささもある。つまり時間がかかるのだ。

この間シャツの汚れに関して調べたんだ。そしたら驚いたよ。検索結果1ページ丸々アフィブログ。そして内容が全てほぼ同じ。こいつは参ったよ。次の検索結果を開く気もうせたね。

まぁそんなことがあったのさ(涙

 

2つ目は時間だ。画像なら一瞬見ただけで自分の欲しい情報がそこにあるのかないのかがすぐに分かる。早い。当たり前だが、文章でくどくど書いてあるより写真見たほうがわかりやすい。そして早い。本当に、早い。その点は光回線の普及などでwebページの許容容量が増えたおかげもあるだろう。

動画はわかりやすい…場合もある。こちらもYoutuber出現のせいでクソ動画が乱立。1分で終わる話を10分ぐらい掛けてたりする。文字と違って10分やら30分やらという動画を全て見なければ欲しい情報が入っているかどうかすらわからない。皆有名Youtuberのマネをするせいでどの動画も内容はほぼ同じ。そのくせ誰も手を付けていない細部がまだまだ多く残る。これだけ人口が増えているのにもかかわらず。数字を追いかけるがゆえにやることが皆同じになるという自体に陥っている。そう言う意味では、調べ物の対象としてはピンキリ…いや最近じゃあまり適さないことのほうが多いな。

 

 

 とまぁ、インスタ映えもそろそろ死後になりそうだが画像検索の重要性はまだまだ上がり続けるだろう。

なので何かを発信する場合はなるべく画像を使用することだ。いや、必ずにしたほうが良いかも。

 

 

アフィブログがありすぎるせいでテキストデータはもはや拾われない。

パッと見てわかるサムネや画像を用意するんだ…っていうか、そもそも画像で発信し他方が良い気がする。ネットでは漫画がブログでもTwitterでもバズりやすい。なにか文章で伝えたいようなことは漫画にすると良いんだな。うん。

 

と言ってる側からやっていないのはよくないな。反省せねば…

 

視点は高く、意志は己で創り出せ

b.hatena.ne.jp

 この一件に関してなんとも言えない感覚があるので少し書こうと思う。

記事自体ではなく、はてぶのリンクを貼っているので何が問題でどういう意見が出ているのかはわかりやすいだろうと思う。

 

 で、個人的には「芸術なんてそういうものでしょ」というのが素直な感覚。仮に何も知らないでこの人の講義を受けたとしても「うわ~マジカヨあいつ頭おかしいわ。さすが芸術家…」って思うだろうし、そもそも当の本人のツイートを見る限りでは、そういう感想を持つってちゃんと講義聞いたんか?っていう感想すら持つ。

 

だが、確かに「調べてから行けよ」ってのもなんか違うと思うし、社会人向けとは言え仮にも大学の講義で「この講義はこれこれこういう講師がこんなお話をしてくれますよ」なんてご丁寧にすべての講義に対して注釈をつけるのも違うと思う。お前ら学びに来てるんとちゃうんか、と。

 

今の社会的には後者の対応がおそらくは是となるだろう。そして芸術に限らず様々なジャンルにおいて、「前置き」はさらに重要度を増すだろう。

まぁサービス業接客業におけるクレーマー対策の為の過剰接客と一緒ですな。

 

 マジョリティとマイノリティは一定のように見えて実は常に中身がじわじわと変化している。時代やその時の人間の考え方や価値観において。最終的(厳密に言えば最後などないが)には中身がごっそり入れ替わっていることすらある。

今の段階では、今までは「それくらい調べとけやww」がマジョリティだったが、「は?先に言っとけよ馬鹿か?」がこれからはマジョリティになる。前者は既にマイノリティに片足を突っ込んでいる。でなければこのように話題になどなりはしない。

 

 まぁ、この点においては、時代と共に不変な物であってもマジョリティである時あればマイノリティである時もある、と言う話でした。

 

 

 で、それじゃあ我々個人はこれら変容していく世界の価値観や考え方に対してどう構えておかねばならないのか、というのがこれから書く本題。

結論から言えば、世界をもっと客観的に俯瞰的に見る。だ。

 

善悪の彼岸という言葉がある。彼岸というのは簡単に言えば向こう側、それを超えた先、だ。善悪に関して「我が善だ」「いやお前が悪だ」とどちらが善悪かと考え言い合っているうちはまだ善悪にとらわれている。人はそれを包み込んだ上でその先へ行かなければならない。

と書くとなんだかアレだが、有り体に言えば「正義の反対はまた違う正義だ」ってやつ。ゲームや漫画などでは割とよく見るやつ。ただ少し違うのは、それを踏まえた(つまり正義とは己の立ち位置や味方で以下用にも変わる)上で「絶対的に正しいことなどこの世に存在しない」ということ。

正義、もっと分解して正しいこと、などこの世には存在しないのではないか。皆誰もが”自分”が見た風景、自分というフィルターを通した世界、を基準に風景や世界を語っている。そしてそれは正しいと皆思っている。だから結局「俺が正しい。これこれこういう理由で俺が正しい」を言い合っているだけになってしまう。

だからこそ、その事象やその人達を見るのではなく、そういう人達が沢山いる世界で起こった事象、と言ったように物事を包括的に、宇宙から地球を見るかのようにすべてを観測し理解し飲み込み、そして”自分の”答えや考えを導き出すこと。それが大事だ。

そうすることにより、世間ではこうだ、とか、社会はこうなっているとか、他者や自分の置かれている環境なんてものでは自分は揺らがなくなる。

 

 船で例えるなら、自身が推進力を有していれば風の有無や風の強さ、帆の向きなどを気にする必要はなくなるということだ。

自分で食事を用意できるなら、「お腹空いたお母さんご飯まだ!?」って不機嫌になることもないのだ。

 

ゼノサーガ エピソード2 善悪の彼岸〈上〉 (ファミ通文庫)

ゼノサーガ エピソード2 善悪の彼岸〈上〉 (ファミ通文庫)

 

 

与えることが出来ない人間には友達も恋人も居ない。

 今年の目標は「与える」にした。

今年の、というかこれから何かを発信する上での目標として、どんなに些細なことでもどんなに対象者が少ないことでも、何かしら役に立つこととして発信することを目標とする。

 

 自分の中では時事問題や、何か楽しいことがあった時、自分の中で考え方が変わった時、これ面白いんじゃね?と思った時、などなどブログに限らずいくつかの面で発信をしていた。

ただ正直それはずーっとなんとなくやっていたことで、一応他人が見られるようなものにはしているつもりだが、それ以上のものではなかった。

なので、これからはそれにプラスアルファとして「役に立つ」ということを付加していく。

こんなことを書きたい!と思った時に一呼吸おき、これ役に立つか?と問いかける。これを役に立たせるにはどうしたら良いか?を問いかける。そうして発信をしていこうというわけだ。

 

 

 じゃあ、この記事が一体何の役に立つのよ?と言う話だが、これは回り回ってアクセスアップや、人間としての存在価値の向上に、程度がどれほどかは知らんが役に立つはずだ。

まぁ正直それなりに真面目な話として。何かをやっている以上はPVや視聴回数などが気になるだろう。そして少しでも多くの”数字”になってほしいと思っているはずだ。

そのためには自身が「与えられる人」でなくてはならない。それは楽しさかもしれないし、ハウツーかもしれない。豆知識かもしれないし、新しい視点かもしれない。

また、人間として成長するためには他者に「与えること」が必要不可欠であるからだ。おそらく友人が少なかったり、恋人が居ないとかそういった類の人たちは、おおよそこれが足りなかったはずだ。かく言う自分ももちろんそうだ。

 

 まず「何故自分が与えなければいけないんだ」と言う考えを捨てなくてはいけない。与える人の周りには自然と人が集まり、集まってきたうちの誰かがあなたに何かを与えてくれるだろう。

つまり、与えるという行為は「自分と相手」という二者だけでなく、「自分と相手と色んな人達」という無限に広がる人間とのつながりを作る唯一の方法なのだ。

まぁ美男美女や金持ちと言った要素でも、いい悪いは別として他者とのつながりを無限に広げることは出来るが、ここを読んでいるくらいだからそういった特殊なものは持ち合わせていない平凡な一般人だろうという前提での話だ。

 

 ということで、些細なことでもいいので与える人になろう。そうしていくと、与えるためには今の知識じゃ足りないな、とか自分の足りないところが見えてくる。

そしてその足りない部分を補い、さらに質の高い”与え”を行えるようになることによって人間としても成長するし、周囲の評価も上がってくるだろう。

知り合いでも友達でも同僚でも、なんだったら全く知らない人でもいい。手を貸してあげる、道を教えてあげる、落とし物を拾ってあげる、そんな些細なことから他者を助ける、他者に与えられる人間になろう。

 

そうすれば自然と自分含めてみんなハッピーになるんだと、30歳超えてようやく気づいたよ。

 

 

主体的である -習慣訓練-

www.kawauchisyun.com

 この人の目的はなんだろうか。家事育児は大変だということを多くの人に知ってもらいたい?

じゃあ知ってもらったらどうするの?知ってもらってそれで終わり?そこがゴール?

だとしたらそれはもう達成しているんじゃないだろうか。

おそらく男女関係なく知識としては「家事は大変」ってみんなもう知ってる。

 

え?実体験として理解していないじゃないかって?

うんそうだけど、じゃあ世間の分かってない連中に何をさせたいわけ?

家事を実際に体験してもらいたいんだよね?で、実際にやってみた上で「こんなに大変だったのかよ知らなかったわ…」って心底思ってほしいんだよね。

じゃあそのアプローチの仕方で合ってるのかな?

今やってることって子供にただ「勉強しなさい」って言うだけなのと一緒じゃない?

部下に「数字出せ」としか言わないのと一緒じゃない?

 

現状のやり方だと”ただ言いたいことを言うだけ→反発される→思い通りに行かないなんでわからないんだムキー→最初に戻る”のループで単に自分にストレスとフラストレーション貯めるだけじゃね?

 

塾の先生、スポーツのトレーナーやインストラクター。彼らが教え子に教えている様子を想像してみてほしい。

教え子が教えたことを上手く理解していないようだ。教えたことを上手く出来ていないようだ。

この状況、普通なら「教え方が悪いんじゃないの?」って思わない?そりゃそうだよね。”わからない人に教えているんだから”

 

ということは?この人は何になるべきなのか?

そう。やる気スイッチを押してくれる先生にならないといけない。

 

そこまでやる義理はない?

そうか。家事の大変さを伝えたいっていうのはその程度のことなのか。

愚痴を吐ければそれでいいのね。そうなのであればこの記事は余計なお世話だった。申し訳ない忘れてくれ。

 

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

完訳 7つの習慣 人格主義の回復