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内向型人間のマストバイアイテム

内向型を強みにする

内向型を強みにする

  • 発売日: 2013/06/16
  • メディア: Kindle
 

 

 内向型のバイブル、と巷で噂の本を買った。まだ届いたばかりなのでパラパラと流し読みした程度だけれど感想を残しておく。

正直な話、僕が30数年悩んできたことや、いろいろなところから学んだことを総まとめしたような本だった。

あえて悪く言おう。これと言って目新しいことはなかった。

殆どのことが「うん、そうだよね」「ですよねー」って事ばかりであった。

僕がもっと若ければ、バイブルになったであろう。

もっと早くこの本を読んでいれば、今頃はもう少しましな生き方をしていただろう。

だが今の僕にとっては「なーんだ、やっぱりこういうことしか書かれていないか…」と少しショックというか物足りなさを感じた。

今の僕はアラサーにもなってクソみたいな人生の足跡しか残しておらず、それをズバッと修正できるような”未知の素晴らしい解決策”を望んでいたからだ。

当たり前だがそんな都合のいい物はこの本にはなかった。

 

 

 ただ、逆を言えば、僕がこうして30何年も悩んできたこと、そうして導き出した答えや、見つけてきた事実は間違ってはいなかった、いやむしろ大正解であったということをこの本は証明してくれた。

典型的な外向型人間である師匠や母の言うことなど、やっぱり聞かなくてもよかったのだw

何かをするにつけお前はああだこうだ駄目だと言われながら「いや俺はあんたと違ってそういうタイプじゃねーんだけどなぁ…」と心のなかで反論しつつも、目上の人の意見はしっかりと聞かないといけないよな、という常識と、僕の心の中は常に右と左でバトル状態だったのだが、その戦いにも今ようやく終止符が打たれた。

 

 

 この本はバイブル、というよりは取扱説明書みたいなもんだ。

内向的人間、つまりあなたってこういう人間よ。こうなったらこうするといいわよ、という内容が書かれている。

内向的人間と言ってもその内に外向性もちゃんと持ち合わせている。常に弱火であったとしても必要なときには超強火にも出来るのだ。短い時間ではあるが。そうやって僕たちはこの外向性優位社会に立ち向かっている。

だがそんな世界に合わせて生きていると、内向型人間は時として自分の特性を忘れたり勘違いしたりしてしまう。

これが出来るんじゃないか、こうしなくても大丈夫なんじゃないか。

そんな事を考えてしまうタイミングが度々やってくる。

そんなときにはこの本を読もう。そして軌道を修正しよう。

僕らに適した生き方の答えはこの社会にはない。この社会にあるものに影響されすぎて自分を見失ってしまわぬように。思い出したらこの本を読み返そう。

直すとか直さないとか、そういう話じゃない。

自分の特性に合った生き方というものがあり、それは世間一般人、世の中の75%の人間のそれとは違うということを認識しよう。

そして常に傍らにこの本を置こう。

 

 

 

 

 

ってそれバイブルやん!

世の中の人ってホント独りが駄目なんだな。

nlab.itmedia.co.jp

 僕は内向型なので一人が好きだ。というか基本誰かと一緒には居たくない。ものすごく消耗しちゃうから。

誰かと一緒に居たいなっていう気分になったときだけ誰かのところに行く。そうやって自分から行っても30分くらいしか持たないんだけど。

 

 初めて一人暮らしをして、自分でご飯を作って、一人で食べた時

「今まで食ってきた飯のなかで今日の飯が一番美味い!!」

と感動したのを覚えている。

母の作る食事が僕の好みではなかったということも多分にあるだろうが、絶対に誰も入ってこない自分だけの空間で食べる食事は最高に美味しかった。

自分ひとりだけという状況がこんなにもリラックスできるのかと、

「俺、今が人生で一番リラックスしてる…」

と思ったことも覚えている。

 

 寂しくて誰かに電話をかけたこともない。

ホームシック?なにそれ?寂しい?なにそれ?

一人暮らしは掃除洗濯炊事にその他諸々全部自分でやらなきゃいけないのよ!!とか一人暮らし大変アピールをやたらとしてくる人達がいるけど、完全に独りなれるというメリットを考慮するとそんなものは僕にとっては本当に些細なコストなのである。

というか、自分で決断して自分で実行するという行為自体が僕にとっては全く負担ではないのでそもそもコストですら無い。

皿洗うのが面倒なくらい。そんな事も習慣化してしまえばなんとも無い。

 

 こういう事を言うと「お前がおかしい」とかよく言われるが、僕からしたらあんたたちのほうがよっぽど異常である。

外向型の人達はこの程度のことでメンタルに不調をきたして、そして仲間が多いので速攻で「わかるわ~うつだよね~」とか多数の賛同を得られる。

 

僕らは常時その状態で頑張って無理して矯正して生きているんですが。

 

とぼやきたくもなる。

が、そんなのにイライラするのは時間の無駄だしエネルギーの無駄だし、そしてなにより僕にとってなんの得もないので「そのまま鬱になってしまえ!そしてそのまま世界が逆転してしまえばいいのに!グヘヘw」くらいな心持ちで生きる。

 

孤独論 逃げよ、生きよ

孤独論 逃げよ、生きよ

 

 

外向的優遇社会が内向的優遇社会へと逆転してくれないかなぁと願う記事

 すっごく乱暴な話をすると、今回のコロナ…というか伝染病というのは人間の外向性、外向的人間が広めていると言っても過言ではない。

我々内向型人間は所詮そうしたエマージェンシーで全滅しないためのバッファでしかない。

 

 今の世の中では圧倒的に外向性が評価される。内向型人間は、外向型人間を真似し、無理して自身の中にある数少ない外向性を拡張することを余儀なくされている。

が、これを機に現状の評価が逆転したら面白いな、いやそうならないかなぁと密かに思っている。

いや、大いに思っている。というか逆転してくれお願いします。

 

 

 まぁ、半ば冗談だ。いや9割は冗談だ。だってそんな事起き得ないからね。それくらい僕でもわかります。願望ってやつですよ。ははは。

 

 

 評価というものは所詮相対である。

近所でどんなにサッカーが上手い子が居ても、地元のサッカーチームに入ってみたらそんなでもなかったとかよくある話。

たとえ地元のサッカーチームでもトップだったぜ!なんて子でもプロユースチームとかに放り込まれたらドベになってたりするわけで。

所詮、何かの評価というものはその周囲にあるものと比較して、それより上か下かというものを偉い人が観測しているに過ぎない。

そう、あんなものは評価ではない。単なる観測だ。そういう意味では、本当に評価ができる上司などこの世には1%と存在しないだろう。

 

 で、何の話だっけ?あぁそうだ、外向内向という話だ。

外向型、外向性が評価されるのも所詮はそういう世界だからにすぎない。彼らの能力が絶対的に高いのではなく、それが高く見える世界だから高いと観測されているだけなのだ。

そう考えると、低くみえるというだけで低いと評価されるのはとてつもなく損じゃないか?と思う。

思わない?だってそうでしょ。ただそのまま生きているだけなのに、方や評価され方やけなされ修正を余儀なくされ、ってこれを損と言わずしてなんと言うのか。

そういう意味で、それが高く見えるからという理由で評価される立場になってみたいなという怠惰な話だ。今回は(笑

 

 

 だが結局は変わらないだろう。コロナの感染力がずーっとこの調子で、毎日毎日当たり前のように数百人単位で増加し、ワクチンや治療薬も出来ず、どんどん人が死んでいく、なんていう状況が当たり前になるわけがない。

いつかワクチンが出来、治療薬が出来、コロナはインフルエンザレベルになることだろう。いや、下手したら風邪レベル程度になる可能性もあるだろう。下手したら、ってなんか変な言い方だが。

前述した状況が当たり前となれば内向型の性格は有利に働くが、騒ぎが収まった世界、今までの世界ではそうはいかない。

我々は相変わらず、「外向性が評価される世界」という異世界に自分を合わせなければいけない日々がまたやって来る。

 

 仕事が終われば誰かと飲みに行き、休みになったら誰かとでかけたりスポーツに興じ、仕事では積極的に誰かのところに直接赴き長時間会話をし、知らない人だろうとなんだろうと積極的に接触する。

そんなことが「何やってんだお前ばかじゃねーのか!!!」と恫喝される世界に一度は行ってみたいな、という。

そんな願望と妄想のお話。

 

 

能力なき者にニヒリズム脱却は必要なのだろうか

 ここで言うニヒリズムとは、

「そんなに頑張らなくていいじゃん。まぁまぁでも楽しく生きていけるじゃん?」

という思考のこと。末人だ。

つまりこの間書いた「危うく一生懸命生きるところだった」の考え方だ。アクシズ教の教えだ。

だがニーチェはそれを超え、出るかどうかもわからないジョーカーを求めて延々とカードを引き続ける事、つまり超人を目指せと説いている。

 

 それはまぁいい。そう生きたいなら生きればいいと思うし、その生き方は果てしなくカッコいいとも思う。すげーとも思う。

だがしかし。駄菓子菓子。それは能力のある者だからこそ出来る生き方なのではないか。アレがやりたいこれがやりたい、俺はこれを一生やっていくという物がある者の生き方なのではなかろうか。

 

 この世界には、この社会には明らかにスペック差というものが存在している。

いやいやそれはそれぞれ個人が頑張ってきて得た能力じゃないか、という人も居るだろう。確かにそうである。そういった側面もある。

だが僕が考えるに個人の能力というのは、幼少期にどのような環境で、どのような親に、どのような育て方をされたかで決まってしまうものだ。

その後の人生で本人が頑張って能力を得たり上昇させたり出来るか出来ないかもここですでに決している。

高校生になる頃にはもう既にその人の人生は決していて、他者との差はもう埋まらないということだ。

僕はそれを先祖代々昔からその場所に住み、仕事も代々受け継いできた人達と接することで知った。生き方、育てられ方、育ってきた環境が違いすぎるのだ。あぁこうして親から子へ渡していくんだ…だからこの人達はやったら強いのか…と、あの人達の強さのルーツを僕は知った。

 

 

 そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。

超人を目指すことの出来る人達は幼少から能力の種を植えてもらえている。そして土やら日当たりやら良好な環境に置いてもらうことが出来ており、毎日水ももらっている。

かたや僕らはそもそも種がない。頑張れ頑張れ言われるが、頑張る種が僕らにはない。種もないところに日を当てたり土を変えたり水をやったりしたところで何かが出てくるわけがないのだ。

そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。

 

 正直その答えはわからない。

超人を目指すのも、末人のままで死ぬのも個人の選択だ。超人を目指せなどとは口が裂けても言えないし、末人じゃ駄目だとは僕は思わない。

だがこの社会を生きる以上、超人を目指すべきだとも思う。今回のコロナの一件でその方向はより強くなっていくだろう。

だが、どちらを選ぶかは本当にそれぞれ個人の選択だと思う。

 

 

 それにしても僕は気づくのが遅すぎた。もうアラサーだ。正直0歳から人生やり直さないといけないと感じたが、そこから人生やり直してると60歳だ。そもそも子供の1年間は僕らの3年くらいあるから、人生やり直している間にやり直し切る前に僕は死んでしまう。

ならば今更超人を目指したところで遅いのではないか?

どうせ何も達成できずに死ぬのなら末人のままで別にいいのではないか?

 

天の邪鬼でどっち付かずな僕はとりあえず、末人としていきながらとりあえず暇なときに種だけでも探そうかな、という生き方をすることにする。

 

 

”自分のやり方”が合ってる人

 1年間親方の元で仕事をして思ったことがある。

親方の言うやり方が全く僕には合わない

ということだ。

師匠に対してなんつー物の言い草だ!って言われるかもしれない。僕もそう思っていた。

僕は守破離という言葉が好きだ。素敵だと思う。だから師匠の言うこともまずは守った。言われたことをそのままやって、まず言われたことを出来るようにしようと。

でも僕はどうもそういうタイプではないらしい。

というか、僕と師匠は人間のタイプや特性が真逆すぎて師匠が上手く行った方法では僕は全く上手く行かないということに気付いたのだ。

手先が器用で運動が得意で右利きの人間が、手先が不器用で運動音痴の左利きに有効なやり方を教えることなど出来るのだろうか?いや、無理でしょw

 

 今の師匠は実は僕が選んだわけじゃない。別のところが駄目だったときに「こういう場所もあるけど?」と紹介してもらったところに僕はそのまま入ってしまった。

これが良くなかった。師匠は僕がちゃんと選ぶべきだった。これは本当に僕のミスで誤った選択だったと今は思う。

 

 師匠はとにかく言ったとおりにやらないと怒る人だった。僕が多少でも自分のやりやすいように変えると「それじゃ駄目だ!だからお前は駄目なんだ!」と怒った。

だが僕は師匠の言った通りのやり方ではどうにも上手く出来ない。だからこそ多少なりとも僕のやり方を入れたかったのだがそれを許されず、言われたとおりにやっても成果は出ず、成果が出なければ当然怒られ否定され、僕はどんどん出来なくなっていった。

 

 僕は昔からなぞるのが下手で苦手だった。ひらがなとか漢字とか小さい頃なぞり書きしたでしょ?あれ、ゆっくり書くのが嫌で、線に上手く添えて無くても早く書きたくて早く書いてた。

だからまぁ字はあまり綺麗じゃないのだけれどw

でも仕事でそれは駄目じゃん?だから僕としては、他人のやり方はあくまで参考。自分のやり方をベースに足りない部分をまず分析し把握、そして他人のやり方や成果物から足りない部分を補うための何かを発掘して自分のやり方にプラスする。

これが僕のやりたいやり方だ。

そもそも思い起こせば僕の人生で他人に言われたやり方が上手く行った試しなんて無いのだ。

僕は社会の中では少数派だと思う。だって社会に適合できないレベルだし。

なら、多数派のやり方なんて合うわけないんだ。他の大体の人が上手くいく方法は僕では上手く行かないんだ。

 

 

 そうするとこの世にサンプルなど限りなく無いに等しい。自分にあったやり方を探す、発掘する、作り出す。これが僕の正しい生き方なのではないだろうか。

そしてたとえ誰かに師事するとしても、自分に似た人に師事すると良いのだろうと、この1年で知った。

正反対の人のほうが刺激を与えあって良い、とか言うけどそれはあくまでお互いが同等な場合だけだろう。そこに上下が発生した途端に物事は一気に噛み合わなくなる。

 

 自分のやり方を探す作る。自分に似た人を探しその人に師事する。

幸い一人で探求するのは得意だし、自分に似た人を探すのは大変だが今はネットで多くの人が己の何かを発信している。昔より遥かに探しやすい。

 

 そう捉えればこれからの人生の生き方はガラッと変わってくる。

やるべきことも変わってくる。観るものも変わってくる。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら目と耳を塞ぎ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」

自分を変えろ、というのは「出来ないことを出来るようになれ」ではなく「自分に合った適切なやり方を見つけてそれに変えろ」ということなのではないのだろうか。

今コロナで世の中が大変だけど、著名人が「自分にできることをやろう」って言ってるのもこういうことが共通して根底にあるんじゃないかなとも思う。

 

 適材適所。適切。適当。適度。適宜。適時。

僕はこれらの言葉が結構好きだ。

自分に合った、その場に合った、その時に合った行動や思考を、ちょうどいいタイミングで行う。

これこそがPDCAな気もするが、世間では違った捉えられ方をしているなと思う。

 

 今回のコロナで、我々人間は強く試されているなと感じる。

力の強いやつは前線で大いに戦えばいい。

頭のいいヤツは後方で参謀をやればいい。

それほどの力も頭もないやつは彼らを手伝えばいい。

それぞれの性能に応じた適切な場所があるはずだ。

そして無理にそれを逸脱する必要もないのだ。

 

 自分に合った生き方、やり方、場所。

そういったものを性能が低い人間こそ見つけよう。

そしてそこで出来る範囲のことを出来るだけやればいいだ。

 

 

シングルタスクの方が僕には合ってた

 少し意識してシングルタスクをするようにしているんだけど、これは結構いいと思う。没頭出来る。集中できる。

一番変わったのは音楽の聴き方。最近何聴いても全然盛り上がらないしつまらないし気に入らなかったんだけど、ちゃんと聴くとちゃんと入ってくるし気持ちも動いてくる。

そして気づくのよね。あぁ、今まで半端にやってたから入ってこなかったんだって。

 

 男はもともとシングルタスクらしい。だからなのか、一度シングルタスクを意識してやり始めると、逆にマルチタスクができなくなってくる。しかもこれ速攻ね。ちょっとシングルタスクをやり始めただけですーぐ出来なくなっちゃう。

それだけシングルタスクが自然であるべき姿なのかな、とか思った。

 

 出来ないことをやるのは負荷がかかる。肉体的にも疲労するし、精神的にもストレスとして負荷がかかってくる。

でも自然体なら掛かる負荷は必要最低限だ。今までは手足にウエイト付けて走ってたようなもんだ。それがなくなれば適切な疲労で適切な効果を発揮できる。

 

 やっぱり出来ないことをやるってコスパ悪いよな。

高負荷で低成績だもんな。

自然なことなら中負荷中成績。

そこから努力して高めれば高負荷高成績になれる。

やっぱり出来ないことは止めて、出来ることをしたほうがいいんだ。

 

 

危うく一生懸命生きるところだった

あやうく一生懸命生きるところだった

あやうく一生懸命生きるところだった

  • 作者:ハ・ワン
  • 発売日: 2020/01/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 最近、鴨頭嘉人の動画を見まくって頑張って自分を変えて人生変えて笑って幸せに生きていくんだ!って意気込んで動画見てたんだけど一つの本を知って「あれ?やっぱ俺そっちじゃないじゃん。」って気づいた。


 今の仕事でクビを言い渡されたわけだけども、一応別立場の方から「君がまだ頑張るって言うなら、社長に掛け合ってみるけどどうする?ちょっと考えてみて。」って言われていて、今ちょうどそれを考えていた。

クビ理由は実力不足。職人技による仕事なので、簡単に言えば草野球レベルからプロ野球レベルにランクアップすることができなかった、ランクアップする能力がなかったということなのだけれども。

そして仕事をする上で親方に「お前不器用」「運動やってないやつはだめ」「左利きはだめ」と言われ、あぁ俺ってこんなにものづくりに向いていなかったんだ…と気づかされたということもあり、個人的には「もう少しやらせてください!!」なんて熱い熱意はもうすっかり無いわけで。

そういう意味では「いやもういいです」と即答しても良かったんだけど、でももしかして自分の中に「もうちょっとやりたい。もうちょっと続けるべきだ。」と思う気持ちがあるかもしれないと思い、それを探すという意味でも考える時間をもらって考えていたわけなんだけれども。

 

 自己啓発的視点でみたら、ここは「続ける」一択なのだ。人は、あと1メートル掘ればダイヤモンドが出てくるぞ、というタイミングでやめてしまうと。だから”あともうちょっと”を乗り越えられれば成果は出るのだと。

続けることは力であると。続けることにより能力は伸びていくのだと。

出来る。自分はできる。自分は凄腕の職人になれる!と思い、言葉に出すことでそうなれるのだ。むしろそう思い言わなければなれないのだと。

 

 まぁ、そういう感じだ。これらは正しいと思う。僕もたしかにそうだと。全くだと。そう思う。

が、今回の件が今までの転職と違うのは「自分の能力やタイプが全く仕事に必要な性質とマッチしない」ということが明確に発覚したということだ。

できないことを頑張る必要はない。出来ることを伸ばせばいい。自己啓発系はこういうことも言う。

僕は好きだったので気が付かなかったのだが、たしかに思い起こしてみると、小学生の頃のこぎり出来を切ったり小刀を使ったり彫刻刀を使ったり、めっちゃ下手で遅かったのである。物置からたまたま小学生の頃に作った物が出てきて、その出来を見て気付いた。

全然まっすぐ切れてないの。笑えるくらい。当時はなんとも思わなかったけど、こいつは誰がどう見ても下手くそなのだ。

作業スピードも思い出してみれば遅かった。みんなが終わっても僕は半分しか進んでいなかったりとかよくあった。

でも気が付かなかった。好きだったから。プラモ作ったり、何かを分解して組み直したり。

まさに下手の横好きだ。前に別の記事でも書いたけど僕の好きなことは何故か全部出来ないことで、きっと出来ないから楽しいのだろう。そういう性癖なのだろう。まぁその話は今回はさておき。

 

 そんなこんなで、そういった事もあり、僕は人生で初めて本当に心から「頑張ったけど出来なかった」と清々しい気持ちで堂々と言える。

 

 「でもこれだけ続けてきたのにもったいなくない?」と言われ、心が少し揺れ「これこれこうだから僕はやめるんだ」と、辞める理由を探して正当化し始め出して、「あ、この心理状態よろしくないな」と思っていた矢先に、ようやくお出ましこの本に出会った。内容はまだ読んでいないw

大切なことだからもう一度言おう。

内容はまだ読んでいない。

 

 僕のスペックははっきり言って低い。両親が教育に興味がなかったのか単純に金がなかったのかはわからないが、習い事をやったことがないしやれと言われたこともない。塾に行ったこともない。

とうぜん大学に行けとも言われなかったし、自分の今後の人生について話を聞かされたこともなかったし教えられたこともなかった。

だから、とは言わないが、僕はこれと言って何かをやってきたわけでもないし、これと言って何かが出来るわけでもないし、これと言った学歴を有しているわけでもない。

だが、他の人達は違う。何かしら習い事を経験し、スポーツを経験し、両親から人生についての話を教えてもらい、大学を選ぶ頃にはほぼ己の進むべき道を決め、決めた人生で10年ほど経験を積んできた。それが周囲のアラサーの人達だ。当然プラスアルファで恋愛経験出産を経験し、仕事面だけでなく人としての人間性という面でも彼らは大きく成長している。

そんな彼らと同じ土俵に立って勝負になるのだろうか。いやならない。

一昔前、無能の平凡人は無能なりの人生を歩むしか無い、と腹をくくった気がしたのだが、いつの日か日の当たる人生に憧れを感じ始め、そして困ったことにそっちの道へ自ら足を踏み入れてしまうという失態を犯してしまった。無能のくせに。

だが大いなる存在は「だからお前じゃ無理だってばwww」って言うことをこの1年間で教えてくれたのではないか、という気がする。

その最終の締めとしてこの本を僕に渡してきたのではないかという気がする。

 

 

 鴨tube見すぎて僕は本当に”危うく一生懸命生きるところだった”。

社会不適合者はどこかスレている。生き方も、考え方も、仕事も。

無意識にズレて居るから社会に適合しないし、そのズレを常時修正し続けるのが体力的にも精神的にも高負荷であるから社会に適合し”続ける”ことが出来ない。

ならば人と同じ生き方は僕らには出来ない。

他者とはズレた、違った生き方を僕たちは見つけなければならない。

その一つがこれなのかな、ってふと思った。

最近ずーっと頑張って走り続けてきたけど、ふとハッとした。なんか変な日本語だけどw

 

 所詮は逃避なのかもしれないけれども、草野球チームがプロ野球球団に入団できないからって罵倒されることはないように、僕らがプロ社会人になれなくても罵倒される筋合いはないんじゃないかな、って今は思うのである。