Goin'にMy Way.

俺の記事を読め!すべての内向型人間に贈る社会派サブカル悟り世代バラエティーコラムGoin'にMy Way、ごらんのブログで更新中☆

ワゴンRスティングレー HYBRID T 感想

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 代車で少し乗ったので感想をひとつ。

 

 これいいね。街乗りオンリーで、車を移動するための手段、道具として割り切ってそれ以上を全く求めなければ。

乗り心地は悪くないし、割と静かだし、ターボでハイブリッドだからパワー不足は下道なら全く感じないし、視界は広めだし、室内も広く感じるし。

通勤、買い物など、日常の足とするならこれでなんの文句もない。そんな車。

 

ただ普段スイスポに乗っているので不満に思ったところが多々。あ、内装は多分スイスポのほうが安いw お金をかけてるところがぜんぜん違うんだなってのがよく分かる車。まぁ方向性がぜんぜん違うからね。

 

で、不満点は、軽ゆえなのかアクセルの反応の鈍さ、ハイト系なので多少のハンドル操作でもボディが左右に振れる、シートが真っ平ら、ブレーキが効かない、アナログセンターメーターは見にくい、ドラポジが女性前提。そんなところか。

パワーが無いからなのかCVTの制御の仕方なのか、巡航時からちょっと加速したい時とか加速感が足りない。といか、巡航の回転数が2000以下とかなのでそもそもトルクがあまり出てない可能性もあるし、そうとう踏み込んでも大した加速をしないのでそもそもパワーがない可能性もあるのだが。踏みすぎじゃね?って思うくらい踏み込んであげないと「え?あぁ加速するんですね」って車がわかってくれないのでちょっと厄介。ATはだいたいこの傾向。好みじゃない。

ショックが結構柔らかいので、常時フワフワしてる感。おかげで低速でも乗り心地は悪くないのだが。タイヤの接地感は結構あるが、ショックの柔から故タイヤは踏ん張ってるがボディが揺さぶられる。酔う。

シートが真っ平らなので横Gを全然支えきれない。ほんの少しハンドルを切っただけで体が横にずれるので、アクセル・ハンドリング・ブレーキをナマケモノのごとくゆったりまったり操作して上げる必要がある。鈍い人には丁度いいんだろうけど、多少なりともキビキビ走れる人には不満。

ブレーキは軽自動車すべてそうだけど、かなり踏み込まないと効かない。こんなに効かないとエマージェンシー時はどうするんだろうか…。結構怖い。かなり余裕を持った状況判断と状況予測、減速動作が必要。

ドラポジはすべての軽がそうだけど、基本は女性を前提としているので、背の低い男性以外は、ハンドルに合わせれば足元が窮屈になるし、足元に合わせればハンドルが遠くなる。男が軽に乗るならこれをわかった上で乗るか、テレスコピックがついている車に乗るべきだ。

 

 

 そんな感じだろうか。悪い車じゃない。っていうか、やっぱり最近の軽ってすげーな!下手に5ナンバー車買うよりよっぽどいいぞ!って思うくらい。

最近軽も5ナンバーもほとんど同じ値段、むしろ軽のほうが高いけど、同じくらいの金額出すなら今の時代は軽のほうが絶対いいと思う。間違いなく軽の方がいい車になってきてる。

自分は普段遣い程度でも軽はちょっとなぁ…って思ってたけど、ここまでしっかりしてるならむしろ軽の方がメリット多いんじゃね?って思ってきた。次はハスラーとかに乗ってるかもしれないw

 

ただ、走りは楽しめない。これは間違いない。

たとえターボであっても、スティングレイっていうちょっと変わったモデルであっても走りは楽しめない。

つまらない、というよりは「楽しむ走りが出来る車じゃない。can't」。

そういう車でした。

並列処理、スタンドアロンのすすめ

 コロナで浮き彫りになってきた直列処理の脆弱性というか短所というか。

今までの日本は基本的にトップダウン。上が情報を処理して命令を出し、下はそれに従う。処理は上で完全に一元管理され、下は情報の処理を行わず、下された命令をそのまま行動に移す。

大きな組織、大人数を動かす場合はこちらのほうがラクで早くて正確な場合もある。ただしそれは、上の情報処理や命令が正確で正しいものであるという前提の上で、という話だ。

今回の政府のあたふた、各都道府県知事の独自の判断や行動を見るとわかりやすい。上の情報処理や命令やが不正確だったり遅かったりしたおかげで、各自治体区長がそれぞれ各個で処理を始めた。並列処理。スタンドアロンで稼働し始めたわけだ。

 

 これは行政に限った話ではない。国民にもこの状況が発生している。

既出自粛や3蜜を避けろ、という要請が出ているにも関わらず外出したり人の多いところに出向いたりしてしまうお馬鹿さん達は今回置いておくとして。

買い占めに走ったり、とにかく政府を批判したり、田舎へコロナ疎開したりとまぁ、行動がちょいちょいバグってきている。

日本国民はトップダウンで生きることに慣れすぎた。自己処理能力がとにかく低いのだ。各個のCPUの性能がそもそも低い。だって上がみんな一元処理してくれるんだから。高性能CPUが必要なのは支持を出す端末のみであり、末端の端末に処理能力などいらないのだ。

だから日本国民のCPUはどんどん劣化していった。

そのため、「トイレットペーパーが無くなるかもしれない」なんていうたった一つの情報で即座に「トイレットペーパーを買いだめする」という行動に移ってしまう。

「安倍の采配はおかしい」と誰かが言えば「そうだ確かにおかしい」とインプットされたことをそのままアウトプットしてしまう。

「東京は危ないから帰ってきなさい」と田舎の家族から言われれば「あぁそうか危ないな帰ろう」と田舎へ帰ってしまう。

今の日本人は入ってきた情報を何一つ処理していないのだ。

 

 

 だが、僕は誰にでもそれなりのスペックのCPUが必ず積まれていると考えている。ただ、そのCPUの使い方がわからなかったり、命令の出し方が下手だったりするためにCPUが動かない状態になっているだけだ、と僕は思う。今までの経験でもそれは強く思う。

なんだかんだ言って大抵の人はちゃんと一人暮らしができるし、どんな女の人でも結婚してお母さんになったら家のこともやるし子供だってちゃんと育てられる。

新入社員だって学生のバイトだって、ちゃんと任せてあげれば自分で考えて自分で仕事を見つけたり作ったりして、ちゃんと自分で仕事をすることが出来る。

僕はそういう人達をたくさん見てきた。だから断言できる。この世に使えない人間などいない。原因はそっちじゃない。使い方が下手な人間、つまり上に立つ人間の方だ。

 

 どんな人間でも、目的地を伝えればそこへ到着することが出来るだ。

現在地は東京駅です。目的地は新宿駅です。

この指示だけで、その人はちゃんと新宿駅に着くことが出来る。それにプラスして「何月何日の何時に新宿駅東南口前に居て」と付け加えれば完璧だ。どんな人でも間違いなくその時間その場所に着くことが出来るだろう。

だが、指示が下手な人はこう言う。

「そこ右に曲がって」

え?どこだよ?

「そこだよそこ!ほら右に曲がれっていってんだろ!!!」

はぁ?わかんねーよどこのことだよ

みたいなことになる。この調子で行くと新宿駅に到着するまでの間に一体何度指示を出さなければいけないのか。そして何度こうやってお互いに確認しあわなければいけないだろうか。

無駄である。クソほど無駄である。

この調子で指示を出すと単純に命令数が多くなってしまう。そして管理者側は当然他の個体にも指示を出しているので、個体の数だけこれが倍々で増えていく。

管理者側は管理者側の仕事もあるだろう。こんな指示の出し方をしていては仕事を処理するどころか増えていく一方だ。

だからこそ、目的地だけ伝えればいいのだ。時間と目的地。納期と目的地。それだけでいいのだ。細かく言えば時間と目的地と品質と、とか色々ちょっと増えるけど、基本は時間と目的地それだけ言って後は任せれば、あとはみんな勝手に動いてくれる。

 

 ここで注意しなければならないのは、指示を出した個体がどういう経路を選択したかに関して口を出してはいけないということだ。

前述した例で考えてみよう。東京駅から新宿駅に行くにはどうするだろう。普通に考えたら中央線だろうか。

だがそこへ到着する術は案外たくさんある。丸ノ内線、山手線、バス、タクシー、自転車、徒歩、頑張ったらヘリコプターとか出来るかもしれない。

そこで例えば指示を出した対象が中央線ではなく丸ノ内線を使ったとする。普通に考えれば中央線のほうが早い。あえて丸ノ内線を選択する必要など基本的にはない。

そう考えて指示を出した側は大抵口を挟んでしまう。

「お前なんで中央線に乗らないんだよ!なんで丸ノ内線なんか乗ってんだよ馬鹿か!」

いや、中央線人身事故で遅れてて…

「え?あぁ。そうか。」

無駄である。クソほど無駄である。

中央線が早いというのはあくまで”中央線がなんの問題もなく定刻通りに稼働しており、駅構内も通常通りなんの問題もない状態なら”という条件付きだ。

それが日常で当たり前なので忘れがちだが、これは立派な”条件”なのである。

しかしそんなことは結構簡単に崩れ去る。ちょっとしたトラブルやアクシデントなど日常のいたる所に潜んでいるのだ。

人身事故、駅構内の異常な混雑、駅構内でなにかトラブルが発生していて人だかりができてて全然動かないとか、結構あるあるじゃないだろうか。

災害なんかが起きた日には下手をしたら徒歩が一番早い可能性だってある。

だがその現場の状況を管理者側は知らない。知り得ない。だからこそ、現場にいるその人にその場で考えてもらって一番はやい確実な方法を考えて処理してもらったほうがいいのだ。

指示も減らせるし、ほんの些細な下らないトラブルの解決策をいちいち管理者が考える必要もなくなる。任せるだけで後は勝手にやってくれる。

だがその”任せる”を大抵の管理者は出来ない。

 

 そしてその”任される”も案外出来ない。

この社会は、勝手にやったら怒られ、やらなければ怒られる社会だからだ。結局何やってもやらなくても怒られるので何もしないが最適解になってしまっている。かなり多くの人間が。

もちろん、それだけの権利も義務も責任も与えていないのだから当たり前なのだが。

なので管理者側はそれを与えるべきだし、被命令側もそれを積極的にもらうべきだ。

 

 そうして各個がスタンドアロンで動くようになれば、管理者側は”管理者本来の仕事”に時間を割ける。

被命令側は、上司に縛られること無く自分のやり方やペースで”自分の仕事”が出来るようになる。

そうして処理を分散することにより、組織全体での処理能力を底上げすることが出来るのだ。

現状ではごく一部の人間だけが処理をしているため処理がパンクして、ただでさえそこまで高くない処理能力を更に落としている。サーバー落ちしているのだ。

 

 こういった今までの働き方、生き方を改善して皆がスタンドアロンになることができればこの国は次のステージへ進化していくことが出来るだろう。コロナはその一助になる。

いや、その一助に出来るかどうかは日本人次第なのだが。

で、多分出来ないと思うので意識してやろうよ、というのが今回の記事というわけだ。

 

 

我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。 ─ 荒巻大輔

 

 

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内向型の為の自己啓発 ~睡眠~

 いま世の中にあふれているいわゆる自己啓発ってやつは外向型人間に向けた物なので、あまり深く信じて実行しないほうが身のためなんじゃないかな、と僕は思います。

とは言え、あれでテンションが上ったり、何でも出来るような気分になったり、プラス面は十分にあるのでガン無視しろとはいいませんが程々にね、というのが僕の考えです。

 

 じゃあ僕たち内向型向けの自己啓発ってどんなものになるんだろう?と考え始めたのですがまず思い浮かんだのはこれです。

とにかくいっぱい寝ろ。

これのどこが自己啓発やねん!って思うかもしれないんですが、僕らにとってエネルギー管理は基礎であり最重要項目でもあります。

腹が減っては戦はできぬ、ではありませんがエネルギー不足では自己を高めるどころか日常をこなすことすら一苦労です。

まずは充電。エネルギーの余剰を作り出すことから始めましょう。自分を高めていくのはその後です。

 

 僕は朝6:30に起きるんですが、就寝は21:00です。日曜日の夜なんかは月曜日の朝が辛すぎる為に20:00にはもう寝ます。

つまり9時間くらい寝てるってわけです。若い頃はもっと寝れましたが最近は自然と目が覚めてしまうので9時間ですw

ただこれは9時間寝ろ、という話ではありません。必要な睡眠時間は人それぞれで違うでしょう。

世間一般では8時間位を推奨されています。短くて済む人は3時間程度しか寝てないって人も結構いると思います。

かく言う僕も若い頃は3時間睡眠だったころもありました。が、それは仕事が割と低負荷だった(仕事は大変だった。負荷が大きかったか小さかったかという話)ことと、若かった、ということも多分にあっただろうとは思います。そして休日は12時間以上寝てました。

内向型人間であっても、日々の消費エネルギー量によってはそういった睡眠時間でも大丈夫なケースもあるでしょう。そういう方の場合は、本当にその睡眠時間で大丈夫なのかを自分の体に問いかけ、可能であれば余剰エネルギーを作るためにも1時間位は多めに睡眠を取ることを意識してみたりするといいと思います。

一方。僕が現状の睡眠スタイルになったのは、現状の仕事が高負荷だったからです(仕事は楽だった。でも人間関係等で負荷が絶大だった。)。

毎日のエネルギー消費量が生産量に追いつかず、エネルギー不足のまま仕事へ行き、乾いた雑巾を絞ってるような状況で生きていました。

朝、既にしんどいという状況から一日が始まり、エネルギー不足のまま仕事をし、当然本来のパフォーマンスを発揮できず、毎日毎日怒られて更にエネルギーが減るという、そんな状況でした。

 

 寝る、ということは内向型人間にとってはかなり効率のいいエネルギーの充電方法だと僕は思っています。

寝ることにより体が休まり回復するのはもちろん、精神的ダメージも実は睡眠で回復します。

いやいや、体の疲労は寝ればもとに戻るけど精神的ダメージは寝ても治らないから困ってるんじゃないか、って思う人もいると思います。僕もずーっとそう思っていました。

でも、回復するんです。ある程度は。

ある程度は、っていうのは内向型人間が「よっしゃー今日も一日頑張るぞー!!!」ってハイテンションになるような余剰エネルギーが作られるほどは回復しませんが、「ふぅ今日も仕事行くか」っていうくらいには回復します、って話です。

朝から「あぁ…今日も仕事か…行きたくない…嫌だなぁ…」ってなるよりよっぽど良くないですか?これだけでも相当楽になりますよ。

 

 じゃあどれくらい寝たらいいのかという話ですが、たぶん皆さん休日は普段より多く寝てると思います。寝ていられる限り寝てると思います。

なのでその睡眠時間を平日でもやってください。

僕は前述しましたが、歳のせいでなかなか10時間以上寝れなくなってきたので9時間にしました。

「えーそれだとアニメ見れないよ!ネット見る時間なくなっちゃうよ!」って思うかもしれないんですけど、それらは必要な分だけ摂取して、余計なものは思い切って切ってください。それだけの価値はあります。

僕も実際、見るアニメの本数をかなり減らしましたし、ネットする時間も減らしましたし、ゲームも減らしました。

振り返ってみると、アニメなんかなんだかんだ言ってたいして面白くもないのに惰性で見てるやつとか結構あるんですよ。なので本当に面白いものだけ見るようにしました。

ネットだって正直な話本当に得なければいけない情報なんてそんなに無いんですよ。冷静になって一歩引いてよくよく考えてみてください。それ本当に必要ですか?「あれ?これ別にいらなくね?」っての無いですか?

ゲームも、僕はもうあまりやらなくなってきていたんですがなんとなくやっていました。”自分はゲームが好きなはずだからゲームをやれば充電できる”と思い込んでいた節があったんですよね。

でも新しいゲームも昔楽しんだゲームも、全然のめりこめなかった。極々まれにハマるやつがあるんですけど本当に稀になっていたので思い切って切りました。

そうして作った時間を毎日の睡眠にあて、日々消費されていくエネルギーの不足分が少しでも少なくなるようにしました。

その御蔭かどうかは正直よくわかりませんが、ストレス耐性は以前より確実に上がっています。ほんの1年前の自分なら、あの親方からのボコられ方なら確実に鬱になって仕事もバックレていたことでしょう。

同じエネルギーが底をついてしまう状況でも、お昼に底をついてしまうのが、夕方に底をついてしまうのか、そんなちょっとした差というか余裕でストレスに対抗できるんです。

 

 

 僕らにとって、小説、映画、ゲーム、アニメ等は貴重なエネルギー源です。ですが、そこに睡眠も入れてほしいんです。

どうしてもこのドラマみたい!このゲーム進めたい!って思う気持ちと同じくらい、どうしても9時間寝たい!っていうのを取り入れてほしいなと思います。

やってみればきっと分かると思います。それくらいの価値は十分あると僕は感じました。

 

 クビになりストレスが減ったおかげで、今の僕の睡眠時間は8時間でも済むようになりました。

そうなってくればその浮いた1時間をアニメに使ったり読書に使ったり自己研鑽に使ったり出来るようになります。

まずは、そういうところまで自分を持っていきましょう。

日々のエネルギー消費量を認識し、日々のエネルギー充電量を認識する。足りなければ足して、十分になってきたら減らす。

その充電量を簡単に増やせるのが睡眠です。新作アニメの中から面白いのを探したり、本屋さんで面白そうな本を探すより楽です。ただ寝ればいいんだからw

 

 ということで。僕からの内向型のための自己啓発第一発目は睡眠に関してでした。

 

睡眠こそ最強の解決策である

睡眠こそ最強の解決策である

 

 

内向型人間のマストバイアイテム

内向型を強みにする

内向型を強みにする

  • 発売日: 2013/06/16
  • メディア: Kindle
 

 

 内向型のバイブル、と巷で噂の本を買った。まだ届いたばかりなのでパラパラと流し読みした程度だけれど感想を残しておく。

正直な話、僕が30数年悩んできたことや、いろいろなところから学んだことを総まとめしたような本だった。

あえて悪く言おう。これと言って目新しいことはなかった。

殆どのことが「うん、そうだよね」「ですよねー」って事ばかりであった。

僕がもっと若ければ、バイブルになったであろう。

もっと早くこの本を読んでいれば、今頃はもう少しましな生き方をしていただろう。

だが今の僕にとっては「なーんだ、やっぱりこういうことしか書かれていないか…」と少しショックというか物足りなさを感じた。

今の僕はアラサーにもなってクソみたいな人生の足跡しか残しておらず、それをズバッと修正できるような”未知の素晴らしい解決策”を望んでいたからだ。

当たり前だがそんな都合のいい物はこの本にはなかった。

 

 

 ただ、逆を言えば、僕がこうして30何年も悩んできたこと、そうして導き出した答えや、見つけてきた事実は間違ってはいなかった、いやむしろ大正解であったということをこの本は証明してくれた。

典型的な外向型人間である師匠や母の言うことなど、やっぱり聞かなくてもよかったのだw

何かをするにつけお前はああだこうだ駄目だと言われながら「いや俺はあんたと違ってそういうタイプじゃねーんだけどなぁ…」と心のなかで反論しつつも、目上の人の意見はしっかりと聞かないといけないよな、という常識と、僕の心の中は常に右と左でバトル状態だったのだが、その戦いにも今ようやく終止符が打たれた。

 

 

 この本はバイブル、というよりは取扱説明書みたいなもんだ。

内向的人間、つまりあなたってこういう人間よ。こうなったらこうするといいわよ、という内容が書かれている。

内向的人間と言ってもその内に外向性もちゃんと持ち合わせている。常に弱火であったとしても必要なときには超強火にも出来るのだ。短い時間ではあるが。そうやって僕たちはこの外向性優位社会に立ち向かっている。

だがそんな世界に合わせて生きていると、内向型人間は時として自分の特性を忘れたり勘違いしたりしてしまう。

これが出来るんじゃないか、こうしなくても大丈夫なんじゃないか。

そんな事を考えてしまうタイミングが度々やってくる。

そんなときにはこの本を読もう。そして軌道を修正しよう。

僕らに適した生き方の答えはこの社会にはない。この社会にあるものに影響されすぎて自分を見失ってしまわぬように。思い出したらこの本を読み返そう。

直すとか直さないとか、そういう話じゃない。

自分の特性に合った生き方というものがあり、それは世間一般人、世の中の75%の人間のそれとは違うということを認識しよう。

そして常に傍らにこの本を置こう。

 

 

 

 

 

ってそれバイブルやん!

世の中の人ってホント独りが駄目なんだな。

nlab.itmedia.co.jp

 僕は内向型なので一人が好きだ。というか基本誰かと一緒には居たくない。ものすごく消耗しちゃうから。

誰かと一緒に居たいなっていう気分になったときだけ誰かのところに行く。そうやって自分から行っても30分くらいしか持たないんだけど。

 

 初めて一人暮らしをして、自分でご飯を作って、一人で食べた時

「今まで食ってきた飯のなかで今日の飯が一番美味い!!」

と感動したのを覚えている。

母の作る食事が僕の好みではなかったということも多分にあるだろうが、絶対に誰も入ってこない自分だけの空間で食べる食事は最高に美味しかった。

自分ひとりだけという状況がこんなにもリラックスできるのかと、

「俺、今が人生で一番リラックスしてる…」

と思ったことも覚えている。

 

 寂しくて誰かに電話をかけたこともない。

ホームシック?なにそれ?寂しい?なにそれ?

一人暮らしは掃除洗濯炊事にその他諸々全部自分でやらなきゃいけないのよ!!とか一人暮らし大変アピールをやたらとしてくる人達がいるけど、完全に独りなれるというメリットを考慮するとそんなものは僕にとっては本当に些細なコストなのである。

というか、自分で決断して自分で実行するという行為自体が僕にとっては全く負担ではないのでそもそもコストですら無い。

皿洗うのが面倒なくらい。そんな事も習慣化してしまえばなんとも無い。

 

 こういう事を言うと「お前がおかしい」とかよく言われるが、僕からしたらあんたたちのほうがよっぽど異常である。

外向型の人達はこの程度のことでメンタルに不調をきたして、そして仲間が多いので速攻で「わかるわ~うつだよね~」とか多数の賛同を得られる。

 

僕らは常時その状態で頑張って無理して矯正して生きているんですが。

 

とぼやきたくもなる。

が、そんなのにイライラするのは時間の無駄だしエネルギーの無駄だし、そしてなにより僕にとってなんの得もないので「そのまま鬱になってしまえ!そしてそのまま世界が逆転してしまえばいいのに!グヘヘw」くらいな心持ちで生きる。

 

孤独論 逃げよ、生きよ

孤独論 逃げよ、生きよ

 

 

外向的優遇社会が内向的優遇社会へと逆転してくれないかなぁと願う記事

 すっごく乱暴な話をすると、今回のコロナ…というか伝染病というのは人間の外向性、外向的人間が広めていると言っても過言ではない。

我々内向型人間は所詮そうしたエマージェンシーで全滅しないためのバッファでしかない。

 

 今の世の中では圧倒的に外向性が評価される。内向型人間は、外向型人間を真似し、無理して自身の中にある数少ない外向性を拡張することを余儀なくされている。

が、これを機に現状の評価が逆転したら面白いな、いやそうならないかなぁと密かに思っている。

いや、大いに思っている。というか逆転してくれお願いします。

 

 

 まぁ、半ば冗談だ。いや9割は冗談だ。だってそんな事起き得ないからね。それくらい僕でもわかります。願望ってやつですよ。ははは。

 

 

 評価というものは所詮相対である。

近所でどんなにサッカーが上手い子が居ても、地元のサッカーチームに入ってみたらそんなでもなかったとかよくある話。

たとえ地元のサッカーチームでもトップだったぜ!なんて子でもプロユースチームとかに放り込まれたらドベになってたりするわけで。

所詮、何かの評価というものはその周囲にあるものと比較して、それより上か下かというものを偉い人が観測しているに過ぎない。

そう、あんなものは評価ではない。単なる観測だ。そういう意味では、本当に評価ができる上司などこの世には1%と存在しないだろう。

 

 で、何の話だっけ?あぁそうだ、外向内向という話だ。

外向型、外向性が評価されるのも所詮はそういう世界だからにすぎない。彼らの能力が絶対的に高いのではなく、それが高く見える世界だから高いと観測されているだけなのだ。

そう考えると、低くみえるというだけで低いと評価されるのはとてつもなく損じゃないか?と思う。

思わない?だってそうでしょ。ただそのまま生きているだけなのに、方や評価され方やけなされ修正を余儀なくされ、ってこれを損と言わずしてなんと言うのか。

そういう意味で、それが高く見えるからという理由で評価される立場になってみたいなという怠惰な話だ。今回は(笑

 

 

 だが結局は変わらないだろう。コロナの感染力がずーっとこの調子で、毎日毎日当たり前のように数百人単位で増加し、ワクチンや治療薬も出来ず、どんどん人が死んでいく、なんていう状況が当たり前になるわけがない。

いつかワクチンが出来、治療薬が出来、コロナはインフルエンザレベルになることだろう。いや、下手したら風邪レベル程度になる可能性もあるだろう。下手したら、ってなんか変な言い方だが。

前述した状況が当たり前となれば内向型の性格は有利に働くが、騒ぎが収まった世界、今までの世界ではそうはいかない。

我々は相変わらず、「外向性が評価される世界」という異世界に自分を合わせなければいけない日々がまたやって来る。

 

 仕事が終われば誰かと飲みに行き、休みになったら誰かとでかけたりスポーツに興じ、仕事では積極的に誰かのところに直接赴き長時間会話をし、知らない人だろうとなんだろうと積極的に接触する。

そんなことが「何やってんだお前ばかじゃねーのか!!!」と恫喝される世界に一度は行ってみたいな、という。

そんな願望と妄想のお話。

 

 

能力なき者にニヒリズム脱却は必要なのだろうか

 ここで言うニヒリズムとは、

「そんなに頑張らなくていいじゃん。まぁまぁでも楽しく生きていけるじゃん?」

という思考のこと。末人だ。

つまりこの間書いた「危うく一生懸命生きるところだった」の考え方だ。アクシズ教の教えだ。

だがニーチェはそれを超え、出るかどうかもわからないジョーカーを求めて延々とカードを引き続ける事、つまり超人を目指せと説いている。

 

 それはまぁいい。そう生きたいなら生きればいいと思うし、その生き方は果てしなくカッコいいとも思う。すげーとも思う。

だがしかし。駄菓子菓子。それは能力のある者だからこそ出来る生き方なのではないか。アレがやりたいこれがやりたい、俺はこれを一生やっていくという物がある者の生き方なのではなかろうか。

 

 この世界には、この社会には明らかにスペック差というものが存在している。

いやいやそれはそれぞれ個人が頑張ってきて得た能力じゃないか、という人も居るだろう。確かにそうである。そういった側面もある。

だが僕が考えるに個人の能力というのは、幼少期にどのような環境で、どのような親に、どのような育て方をされたかで決まってしまうものだ。

その後の人生で本人が頑張って能力を得たり上昇させたり出来るか出来ないかもここですでに決している。

高校生になる頃にはもう既にその人の人生は決していて、他者との差はもう埋まらないということだ。

僕はそれを先祖代々昔からその場所に住み、仕事も代々受け継いできた人達と接することで知った。生き方、育てられ方、育ってきた環境が違いすぎるのだ。あぁこうして親から子へ渡していくんだ…だからこの人達はやったら強いのか…と、あの人達の強さのルーツを僕は知った。

 

 

 そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。

超人を目指すことの出来る人達は幼少から能力の種を植えてもらえている。そして土やら日当たりやら良好な環境に置いてもらうことが出来ており、毎日水ももらっている。

かたや僕らはそもそも種がない。頑張れ頑張れ言われるが、頑張る種が僕らにはない。種もないところに日を当てたり土を変えたり水をやったりしたところで何かが出てくるわけがないのだ。

そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。

 

 正直その答えはわからない。

超人を目指すのも、末人のままで死ぬのも個人の選択だ。超人を目指せなどとは口が裂けても言えないし、末人じゃ駄目だとは僕は思わない。

だがこの社会を生きる以上、超人を目指すべきだとも思う。今回のコロナの一件でその方向はより強くなっていくだろう。

だが、どちらを選ぶかは本当にそれぞれ個人の選択だと思う。

 

 

 それにしても僕は気づくのが遅すぎた。もうアラサーだ。正直0歳から人生やり直さないといけないと感じたが、そこから人生やり直してると60歳だ。そもそも子供の1年間は僕らの3年くらいあるから、人生やり直している間にやり直し切る前に僕は死んでしまう。

ならば今更超人を目指したところで遅いのではないか?

どうせ何も達成できずに死ぬのなら末人のままで別にいいのではないか?

 

天の邪鬼でどっち付かずな僕はとりあえず、末人としていきながらとりあえず暇なときに種だけでも探そうかな、という生き方をすることにする。